きよしこの夜博物館でクリスマスプレゼントを購入する気持ち

礼拝堂の前に「きよしこの夜特別郵便局」と「きよしこの夜博物館」
を建てました。
クリスマスシーズンには博物館前にクリスマス市を設け、観光客の
誘致に力を入れるようになりました。
また、近くには土産物店もできました。
営業は、11月末から1月6日までで、毎年異なったスタンプを押して
もらえます。
12月にはアメリカや日本からの観光客がバスで大勢訪れてきてにぎわっ
ています。
「きよしこの夜博物館」は、オーベルンドルフの町や「きよしこの夜」
の歴史を本当によくまとめて展示してあるんです。
しかし、観光客のほとんどが1階のショップしか訪れずに、二階にある
博物館まで行く人はほとんどいません。
そして、礼拝堂のすぐ後ろにはエゼフモアが住んだ司令官もあります。
残念ながらこれに気がついている人はほとんどいません。
クリスマス市はドイツ、オーストリア、ドイツ国境に近いフランスの
エルザス地方など、ドイツ語圏で盛んに行われています。
その他の周辺国にもあるのですが、ドイツ語圏ほどは盛んではありませ
ん。
最近では、以前はやっていなかた都市であるアムステルダムでも
ドイツ風のクリスマス市が行われています。
これは年を追うごとに開催する都市が増加しています。
ドイツ語圏に限っては、クリスマス市の数は増えています。
クリスマス市で有名なニュルンベルクやミュンヘンでは、クリスマス市
のことを「クリストキントレマルクト」または、「クリッペルマルクト」と呼ばれています。
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世界ひ広まったクリスマスソング

19世紀には後半には、スウェーデンやノルウェーのカトリック教会だけ
でなく、プロテスタントの教会でも「きよしこの夜」が歌われていま
した。
また、宣教師とともにアフリカ、インド、ニュージーランド、南アメリカにまで評判が広がっていきました。
重要なのは、ライナーファミリー合唱団やシュトラッサーファミリー
合唱団が、チロルの出身者だったからこのクリスマスソングが世界伝播
したことです。
もし、バイエルンの出身だったり、「きよしこの夜」がフランスで
作成されていたりしたら、ハプスブルク帝国との同盟国の皇帝の御前
で歌うことはなかったのです。
また、イギリスを含む同盟国での公演に次々招待されることもなかった
のです。
また世界の舞台で披露されることなく歴史の中に埋もれていたはず
ですね。
ライナーファミリー合唱団によって「きよしこの夜」がアメリカに
上陸した後は最初の英訳歌詞が賛美歌集にのりました。
オリジナルの曲は子守唄のような雰囲気があったといわれており、
この歌が世界各国の言語で翻訳され、たくさんの国で歌いつがれている
ことは、教会にいた誰も想像できなかったでしょう。
ザルツブルクからローカル線で三十分のところにあるオーベルンドルフ
の町外れに、「きよしこの夜記念礼拝堂」があります。
数十年前の12月に訪ねた時には、道しるべもなく、途中で地元の
人に道を聞いてみるしかなかったのです。
何しろ、住宅街にポツンと建っている礼拝堂を訪ねる人は珍しい
ほどです。

クリスマスプレゼントの曲が必要なのはドイツと日本の大都市で人気だったから

「きよしこの夜」を世界的に有名にしたのはライナーファミリー
合唱団です。
ベルリンでは、プロイセンのフリードリヒベルヘイム4世がたいへん
このクリスマスソングを気に入り、毎年、クリスマスシーズンには
王宮で大聖堂合唱団に歌わせていました。
ベルリン、ドレスデン、ライプチヒは日本にたとえると東京、京都、
大阪にあたります。
このような三大都市で「きよしこの夜」が大ヒットするということ
は、今ではミリオンセラーになるようなことです。
ナポレオン戦争や市民革命で疲弊していたヨーロッパの人々の心
に、この曲が安らぎを与えていたのは間違いないでしょう。
「きよしこの夜」はカトリック教会で作られたカトリックのクリスマス
の曲です。
一方で、プロイセン王国の首都ベルリン、ドレスデン、ライプチヒ、
ハノーファーはルターの宗教改革の後はプロテスタント勢力の強い
地域でありました。
それにもかかわらず、なぜ、「きよしこの夜」はプロテスタント地域
でも熱狂的に受け入れらえたのでしょうか。
メロディーが単純でありながら、美しいことがその理由でありますが
最もふさわしい理由は、歌詞がカトリック的ではなかったことです。
カトリックでは聖母マリアが崇拝され、歌詞にもそれが強く反映され
ています。
ところが、「きよしこの夜」の詩には聖母マリアは出てきません。
このことによって、この曲は聖母マリアを崇拝しないプロテスタント
にも広く受け入れられたのです。

チロルの歌をクリスマスの日に演奏する合唱団

ライプチヒで二度の公演を行ってから、ドレスデンの楽譜出版社に
認められ、4つのオリジナル・チロルの歌と題する楽譜が出版され、
その中に、ピアノ伴奏付き4声のための歌として「きよしこの夜」
が収録されました。
なんと、表紙にはシュトラッサー一家の民族衣装姿が手彩色で描かれて
いました。
この時のドイツでは、チロルの民族衣装やダンスがもてはやされて
いました。
そのために、この曲もクリスマスの歌というより、むしろチロルの歌
として一般に歓迎されました。
シュトラッサーファミリー合唱団よりも先に、「きよしこの夜」を
レパートリーに加えていた合唱団が先にありました。
男性が4人、女性が1人から構成されたライナーファミリー合唱団で、
すでにクリスマスには地元の教会で「きよしこの夜」が披露されて
おりました。
続いて、ライナーファミリー合唱団が、当時に、ツィラー渓谷で有名
でしたが、ヨーロッパ各地やアメリカに公演旅行に出かけています。
この合唱団の人気を高めたのは、その卓越した曲のアレンジ力であり
ました。
チロルを含むアルプス地方の民族音楽は、方言で歌われるうえにメロデ
ィーが単調で、聞いていると耳にはとても心地よい響きなのですが、
そのうちに眠くなってきます。
彼らは、歌詞が理解できない他の都市の聴衆のために、ヨーデルを多用
して、伝統的な曲を新しくアレンジして歌いました。
また、イギリスやアメリカからも招待を受けて、クリスマス当日に
焼失したトリニティー教会そばのハミルトン記念墓地で、チロルの歌
としてこの歌を歌いました。

アルプス地方の合唱団の歌をクリスマスプレゼントに添えてください

もともと山から山への伝達手段だったヨーデルも、徐々に音楽性を
高めていきました。
今でもアルプス地方には、ヨーデルやツイッターなどの民族音楽を
奏でる合唱団や楽団があり、コンテストも行われ、テレビの音楽番組
にもこのような合唱団や楽団はよく出演してきます。
このような合唱団や楽団の中には、ヨーロッパ各地やアメリカに演奏
旅行を行うものもありました。
クリスマスの定番曲である「きよしこの夜」をドイツ国内に広める
ことに一役買ったのは、女性三人、男性一人からなるシュトラッサー・
ファミリー合唱団です。
手袋を生産していたこの一家は、手袋の販売と演奏活動とを上手に
結びつけ、手袋販売のために毎年のようにドイツのクリスマス市場
や見本市を訪れると、そこで公演も行っています。
このようにしていくと、クリスマスシーズンにライプチヒのカトリック
系の教師やオルガン奏者の前で、「きよしこの夜」を歌ったのち、
プライセンブルクの王宮礼拝堂で行われたクリスマスミサでもこの
歌を歌い、大喝采をあびました。
シュトラッサー一家が演奏する「きよしこの夜」をもう一度聞きたい
人々が増えたので12月25日に、市内のホテルで行われたコンサートで
その期待に応えました。
ライプチヒは豊かな商業都市で、文化の育成にも熱心でした。
オペラ座が建てられたり、ゲバントハウスオーケストラが設立された
りしました。
バッハが聖トーマス教会合唱団の指揮者も務めていたのです。
市民の耳が肥えていたライプチヒで好評を博すということは、その
音楽性を認められたということなのです。

きよしこの夜の誕生秘話をクリスマスプレゼントに付け加える

クリスマスに間に合うように夜に急いで曲を書き上げて、合唱団の
メンバーを呼び集めるとさっそく練習を行いました。
そして、12時のミサで歌うことにしました。
こうしてできあがったのが、「きよしこの夜」であります。
すばらしいテノールだった少年が、ギター演奏をしながら上のメロディーを
歌い、教会の聖歌隊が終わりの四小節を繰り返しました。
日本で知られているクリスマスの伝説はそういうことですが,実際は
オルガンが使えない状態だったほどではなく、少し傷があった程度
だったみたいです。
そして、オルガンが壊れたからしかたがなく「きよしこの夜」を作った
のではなく、もともと、住民に親しみやすいクリスマス曲をドイツ語
の歌詞で作りたいと思っていて、たまたまオルガンの状態がよくなかっ
たので、ギターの伴奏をつけて、自分の考えを実行したのです。
しかし、民衆はこれまでギターを見たことがなく、ヨゼフモアが
ギターを弾き始めると最初は驚いたようだったが、やがて曲の美しさ
に引き込まれていったそうです。
さて、どうしてザルツブルクのはずれのヨーロッパの中で見れば特段
どうということもない町で生まれたこの歌が、どうして世界に知れ
渡ったのでしょうか。
オルガンを修理するために呼ばれた職人が、「きよしこの夜」を聞いて
気に入り、楽譜を写して故郷に持ち帰りました。
まだ、ラジオやテレビもないなく家庭内の娯楽が乏しかった頃、ヨーロッパ
のアルプス地方ではクリスマスの夜を楽しむために、家族や
親族あるいは親しい友人たちとグループを作って音楽を楽しみました。

クリスマスに聴く名曲がクリスマスプレゼントなのか!

私が最も好きなドイツのクリスマスの歌は、「薔薇が咲いた」です。
この歌はもともとは15世紀に作られたライン地方のカトリック信徒
のマリア賛歌だったのですが、プロテスタントの教会音楽家が歌詞を
イエス賛歌に変更したので、その後は、プロテスタントの間でも
人気となりました。
世界中で誰でも知っている歌が三つあると言われています。
それはですね、「ハッピーバースデートゥーユー」と「きよしこの夜」
と「蛍の光」です。
「蛍の光」は欧米でも別れの曲として知られています。
そして、「きよしこの夜」は曲、詩ともに新しいクリスマス聖歌を
普及させる目的で作られ、12月24日に、オーストリアのザルツブルク
近郊の街のクリスマスミサで初演奏されました。
オルガンは当初は世俗楽器とされていまして、礼拝での使用は禁止
されていましたが、教会で使われるようになり、バイエルン地方の
都市にはオルガニスト、聖歌隊指揮者、音楽監督がおり、教区教会
にオルガンが置かれていました。
聖ニコラウス教会はザルツァハ川が大きくカーブするちょうどカーブ
のすぐそばにありました。
川が氾濫するたびに教会一帯は水浸しとなり、教会の古いパイプオルガンにも悪影響を与えていました。
そして、クリスマス直線に、ついにオルガンは壊れてしまいました。
今から修理のためにオルガン職人を呼んだとしても、とうていクリス
マスには間に合いませんよ。
音楽のないクリスマスミサなど考えられないですね。

オルガンでクリスマスプレゼントを彩る効果がある

私が最も好きなドイツのクリスマスの歌は、「薔薇が咲いた」です。
この歌はもともとは15世紀に作られたライン地方のカトリック信徒
のマリア賛歌だったのですが、プロテスタントの教会音楽家が歌詞を
イエス賛歌に変更したので、その後は、プロテスタントの間でも
人気となりました。
世界中で誰でも知っている歌が三つあると言われています。
それはですね、「ハッピーバースデートゥーユー」と「きよしこの夜」
と「蛍の光」です。
「蛍の光」は欧米でも別れの曲として知られています。
そして、「きよしこの夜」は曲、詩ともに新しいクリスマス聖歌を
普及させる目的で作られ、12月24日に、オーストリアのザルツブルク
近郊の街のクリスマスミサで初演奏されました。
オルガンは当初は世俗楽器とされていまして、礼拝での使用は禁止
されていましたが、教会で使われるようになり、バイエルン地方の
都市にはオルガニスト、聖歌隊指揮者、音楽監督がおり、教区教会
にオルガンが置かれていました。

子供たちへのクリスマスプレゼント

ルターは子供たちへ曲をクリスマスプレゼントに贈りました。
多くの家にも浸透し、家庭でも祈りの時間に広く使われるようになり
ました。
ルターは会衆賛美歌を提唱し、宗教改革の広がりとともにオランダ、
北欧にも伝わり、プロテスタントのシンボルにもなりました。
バッハは、ルーテル教会の教会音楽家です。
ライプチヒの聖トーマス教会の音楽監督となったバッハがめざした
ものは、当時一般的だった演奏会場でのキリスト教音楽ではなく、
教会の礼拝における教会音楽、礼拝音楽でありました。
しかし、ルターが目指した誰もが歌える賛美歌に比べると、一般
大衆向けとはいえませんが、クリスマスシーズンにはよく歌われて
いるバッハが編曲したクリスマスの歌があります。
18世紀後半から19世紀には多くのクリスマスの歌が作られました。
都市において市民階級が確立するに伴い、クリスマスの歌は広く家庭
に浸透します。
また、19世紀にはピアノが普及したことに伴って、クリスマスイブに
ツリーを飾ったリビングルームでクリスマスの歌を歌たっり、楽器
を演奏したりという習慣も定着します。
クリスマスの歌はクリスマスを祝う家庭において格好のファミリー
ミュージックとなりました。
ドイツ人は特にこのことに意識が高揚してこの習慣に浸透しました。
二度の世界大戦があったことから、ドイツでは家庭でクリスマスの
曲を演奏する余裕はなくなり、再びブームとなるのは1950年代以降
のことです。

歌を歌いながらクリスマスプレゼントをもらう

ドイツ語、もしくはドイツ語とラテン語の両方で歌詞が書かれた最初
のクリスマスの歌は中世後期にできました。
これは12月24日の真夜中に行われたミサにおいて、救世主の誕生を
祝う典礼を一部として、司教と信者あるいは聖歌隊との間で交互に
歌い交わされた応答唱歌でありました。
本来は、クリスマスは教会祭事であり、このころのクリスマスの歌
は、今のような美しいメロディーに分かりやすい歌詞がついたもの
はありませんでした。
中世では、子供や大人たちがグループを作り、この親しみやすい
とはいえないクリスマスの歌を歌いながら教区内を歩いて回って
いました。
たいていは24日の晩に家から家を歌いながら訪ねて、リンゴ、ナッツ
お菓子、お金などをもらいました。
このようなグループで最も有名なのがクレンデゼンガーと呼ばれる
子供の聖歌隊なのです。
クレンデとはラテン語で歩き回るという意味で、20人くらいのグループ
で、12月24日の午後から真夜中まで、ラテン語とドイツ語のクリスマス
の歌や聖歌を歌って回りました。
マルチンルターも幼少の頃は、このクレンデゼンガーの一員だった
のです。
ドレスデンの聖十字架合唱団の黒い制服もクレンデゼンガーに由来
し、16世紀以来のものですよ。
子供たちへのクリスマスプレゼントとして作った詩があります。
この詩は、十五番から成り、天から降りて来た天使が、救世主の
生まれることを人々に知らせ、救世主を地上につかわされた神に
皆が感謝するという内容です。